2011年5月2日月曜日

日本人学生とシンガポール人学生の差


思えば去年の9月。シンガポールでの授業が始まって1カ月ぐらいたって気付いたことがった。それは日本人学生とシンガポール人学生の圧倒的な“”である。



日本人学生が馬鹿であるとか、能力がないとか主張する気は毛頭ない。むしろポテンシャル的には同じだと思っている。しかし、気付いたのは圧倒的な“意識の差”である。



まず日本人が英語喋れない=能力がないっていう公式は成り立たたせたくない。なぜなら基本的に小中高大と日本語で教育を受けているし、英語のハンデはもちろんある。逆にシンガポール人はずっと英語で教育を受けているので英語はもちろん出来る。そしてチャイニーズはそれプラス中国語もできる。



これらのことは正直環境によるものが大きいので能力の差があるとは言いたくない。もちろん国際的にSurviveするためには英語ができないといけないのは当然であると思うが。キャッチアップするかどうかは個人次第。しかし現実的には英語が出来ない=能力がないとみなされても仕方ないのかもしれない。



とにかく気付いたのは“意識の差”である。ここで意識の差とは勉学に対する意識、仕事に対する意識、そして将来に対する意識である。たとえば大学は基本的に良い仕事に将来就くため、それに対する準備として“勉強をしてスキルをつける場”として捉えられているので、勉強に対する姿勢が真面目。つまりGPA(成績)と就職が直結しているので、ここに意識の差が現れる。



こっちではポテンシャル採用はほとんどないので各々自分の専攻の知識を深め、スキルを付け、就職に備えなければならない。ファイナンス専攻の人は金融機関へ、政治学専攻の人は公務員へ、マーケティング専攻の人はマーケティングのジョブへ。


つまり日本のように文学部の人が銀行へ行くなどあまり考えられない。そもそも応募しない。


例えば僕は専攻を聞かれて”Political Science Economicsっていうと, じゃあKenは政府で働きたいのかって良く聞かれる。そういときには日本のポテンシャル採用のことを説明し政治学専攻でも銀行に行けるんだと答えている。そうなると、じゃあ専攻って意味あるの?って話になるよね。


実際に大学で勉強していることは意味がないって一般的に捉えられているから専攻って意味がないのかもしれない。少なくとも日本では。でもシンガポールではそれは意味があって就職の際に必要であるというこが理解されている。個人的には全ての勉強には意味があって繋がりがあると思っているけども。



とりえあずこの意識の差が最終的に能力の差になってくるのかもしれない。



例えば



標準的なシンガポール人。
1.英語ネイテイブ
2.中国語できる
3.専攻によってそれなりのスキルは持っている。(ほぼ即戦力)
+日本語や韓国語ができる学生もいる。

標準的な日本人。
1.日本語ネイティブ
2.英語できない
3.即戦力的なスキルを持っているのは稀。



これでどっちが能力あるっていったら完全にシンガポーリアンだよね。少なくても世界市場おいては。 


こう考えると日本人学生って一歩日本を出たら一気に戦闘力が落ちるよね。ていうか戦うどころか土俵にすら上がれない。



実際にSMUでの前期はこの圧倒的な差に絶望した。グループプロロジェクトのディスカッションとかでも圧倒的なインプット差があって、最初の方は毎回打ちのめされていた。
英語が出来て当たり前の世界なので“おまえは英語が外国語だから話せなくも仕方ないよ”っていう雰囲気は正直まったくない。配慮がないって言ってしまったらそうなるかもしれないが、グローバルランゲージをまとも話せない方が悪いだろう。



最低限は英語の習得、そして自分の専攻などの知識やスキルをつけて世界という船にしがみつくことが大事なのかな。今のっている船はいつ沈没するかわからないから。



こういう意識って留学している人、した人って大体持っていると思う。昨日ロンドンのSOASに留学しているゼミ生とスカイプしたときも"日本ヤバい"っていうフレーズが連発した。






とりえあえず自分に出来ることとして卒業までに世界標準に出来るだけ近付いてそれを突破する。



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